秋田県東成瀬村手倉~岩手県奥州市胆沢区下嵐江・・・仙北道(仙北街道)
 仙北街道は、仙台藩と秋田藩を結ぶ最短ルートとして奥羽の歴史に登場したのが宝亀7年(776)。何と1200年余りの歴史を持つ。岩手県側では「仙北街道」、秋田県側では「仙北道」あるいは「手倉越」と呼んだ。この古道の魅力は、ただ歴史が長いというだけではない。一帯は、1990年3月、白神山地や八幡平玉川源流部とともに、栗駒山・栃ケ森山周辺森林生態系保護地域に指定されている。そのど真ん中を横断し、現在もなお開発から逃れて、ほぼ昔のまま現存している。つまり現代に残された「奥の細道」あるいは「奇跡の古道」とも言えるだろう。
▲仙北道ルート図(カシミール3Dで作成)

仙北道コース・・・秋田県東成瀬村手倉~豊ケ沢林道車止め~藩境塚(秋田藩と仙台藩の境界、岩の目沢)~丈の倉~引沼道~五本ブナ~柏峠(1018m)~山の神(天保の石碑)~笹道別れ~ツラコブ~中山小屋(秋田・岩手の荷物交換場所、お助け小屋)~小出の越所(お助け小屋)~亀の子~栃川落合~ツナギ沢~マタギ坂~大胡桃山(934m)~840m分岐~岩手県奥州市胆沢区大寒沢林道終点

 秋田県側東成瀬村の起点・豊ケ沢林道終点(標高約850m)から峰伝いに柏峠(1018m)、中山小屋を経て、小出川を渡渉し、栃川、ツナギ沢沿いの古道を歩き、見晴らしの良い大胡桃山(934m)を越え、峰伝いに下って岩手県奥州市胆沢区側の起点になっている大寒沢林道終点に至る約13km。林道には標識がなく、迷いやすいので注意。 
仙北道その1・・・東成瀬村手倉~小出の越所
▲秋田県東成瀬村手倉の起点に設置された古道の案内図
 もともとは、6里・24kmの道程だが、ブナ原生林を縫う古道は、その約半分、13kmである。
▲丈の倉
 林道終点から急な斜面を登ると「十里峠」、アップダウンの続くピークに仙台藩と秋田藩の境界「藩境塚」の標柱がある。ここから下ると、道中唯一の小沢がある。ここで水を補給し、稜線沿いに進むと、まもなく視界は一気に広がる。ヤセ尾根が続く丈の倉付近は、天気が良ければ、焼石岳が一望できるが、この日はあいにく分厚い雲に覆われていた。
▲丈の倉左手に、深いV字谷の「岩の目沢」を望む。
▲柏峠(1018m)
 「引沼道」「5本ブナ」を越えると、道中最も高い「柏峠」に達する。山頂は、深い笹薮や潅木類に覆われ、見晴らしが悪いのがちょっと残念だ。「柏峠」と刻まれた標柱は、地元で採れる「合居川石」を使用している。地名や旧跡に設置された標柱は、古道を復活させた東成瀬村「仙北道を考える会」と奥州市胆沢区「仙北街道を考える会」の皆さんの労力奉仕によって成し遂げられた。古道を歩く旅人にとって、こうした標柱は、願ってもない目印になるだけに、歴史のロマンを追う両町村の情熱に感謝を捧げたい。
 かつて、柏峠以遠は、薮と化していたが、今はご覧のとおり、薮が刈り払われ、迷うこともなく快適に歩くことができる。まるで手入れの行き届いた登山道を歩いているような気分だ。
▲歩くにつれてブナの森も深くなる
 古道周辺を見回すと、200年~300年ほどの巨木が林立し、1200年余りの古道を歩く気分は満点だ。ブナの林床は、太い笹薮に覆われ、6月頃には極上のタケノコがたくさん生えるだろう。つまりこの古道は、四季折々、趣の違った景観と山の恵みがあるだけに、一度や二度歩いただけでは、とてもその全貌を体感することはできないだろう。
▲山神の石碑
 江戸時代・文化年間の年号が刻まれた道中唯一の旧跡。「山神碑拓本」によれば「文化二年 前沢町□□屋 世話人・・・山神・・・吉左エ門 田子内 喜□□ 七月十二日」と解読されている。この「山神」の石碑は、難所が続く街道を行き交う人々の精神的な支えになったことは間違いないだろう。それだけに我々も往時を偲び、酒とオニギリ、賽銭を置いて、道中の安全を祈った。
▲雪圧によって根元が曲がったブナの窪地
 ブナの根元曲がりは、一帯の雪の深さを物語る。かつて背負子たちは、50kgもの荷を背負い、アップダウンが続く古道を歩いたと記録されている。早朝手倉を出て、中山小屋まで12km、往復24kmもあるが、日帰りで往来したという。20kgにも満たない荷を背負い、何度も喘ぎながら休む現代人には、とても想像だにできない凄さだ。
▲古道沿いに佇む老木のブナ
 江戸時代以前は、確かに表街道として活躍したが、北上市から横手に出る街道が利用されるようになると、難所が続く仙北道は、裏街道としての役割を担うようになる。つまり参勤交代や武士、商人など上流階級が利用する道ではなく、民百姓・背負子や旅人、土方、坑夫、藩から追放された罪人、乞食、浮浪者、飢餓難民、旅マタギ、隠れキリシタンなどが往来した。仙北道は、言わば「人生の裏街道」と形容したくなる歴史を持つだけに、なお一層心惹かれる。
 天保7年(1836)、胆沢地方一帯が大飢饉に見舞われた冬場に、前沢の商人が秋田より米を三千俵も買い付け、仙北道を運んだ。古文書には、薪取り人夫や雪踏人夫が雇われたことが記されている。当時、米と酒は「山越え禁止品」であったが、裏街道にふさわしく、どうも裏取引で行われたらしい。
▲粟畑
 「笹道別れ」「ツラコブ」を下ると「粟畑」と刻まれた標柱に達する。ここから仙北道の中間地点「中山小屋」も近い。
▲中山小屋跡
 秋田と岩手の荷物の交換を行った中山小屋の跡。標柱が設置されている右手に平らな場所がある。ここに中継所兼仮倉庫であった笹小屋があったのだろう。旅人の一夜の宿としても活躍したらしく「お助け小屋」とも呼ばれていた。小屋には、常時鍋と椀が備えられていた。手倉からここまで3里・12キロ、ちょうど半分の道程である。

 記録によれば、仙台藩からは三陸海岸、北上川でとれた魚類、日用品では、金物、南部鉄瓶、荒物、小間物、衣類、黒砂糖など。秋田藩からは、藩外持ち出し禁止となっていた米、酒などが代表だったと記されている。
▲「中山小屋 十三年八月」と刻まれた刻印。
 ブナの幹に刻まれたナタ目を一律イタズラ書きと非難する風潮も少なくないが、こうしたナタ目は、古道の証になるだけに貴重な刻印である。
▲沢に向かって急坂を下ると、眼下から小出川の沢の音が聞こえてくる。小躍りしながら、急な斜面を下る。
▲小出川渡渉点・・・小出の越所
 やっと小出川に達する。豊ケ沢林道からここまで約7キロ。右岸の古道沿いに「小出の越所」と刻まれた標柱がある。このすぐ傍に東京からやってきたというパーティがテン場を構えていた。話を聞くと、明日は東山沢を詰め、明後日は、柏沢を詰めて仙北道を下る計画だという。

 記録によれば、小出川が増水した時は、渡渉できないことも度々あったらしく、中山小屋と小出の越所に「お助け小屋」と呼ばれる合掌造りの笹小屋があったと記されている。
 流れが変わった栃川右岸のテン場は、大量の風倒木があった。周りは深いブナの森に包まれテン場としても一級品。それだけに、駆け足で通過するのではなく、ここに一泊し、周囲の原生的な自然と歴史のロマンにじっくり浸ることをオススメしたい。
小出川周辺の清流と滝、森、草花・・・
▲左から栃川が合流する二又付近 ▲大高鼻沢二段10m滝
▲栃川のナメ滝
 仙北道沿いに流れる沢が、小出川支流栃川である。一帯はブナ、サワグルミ、トチノキ、カツラなど広葉樹の原生林に覆われ、のんびり散策するだけでも楽しい。深い森に包まれた穏やかな流れには、橙色の斑点が鮮やかなニッコウイワナが生息している。
▲栃川の名の由来となったトチの実
 秋、栃川を歩けば、その名前の由来がすぐに分かる。上の写真は、沢に大量に落下したトチの実。見上げれば、巨大なトチノキが至る所に林立している。光沢のある赤褐色で、すりつぶしてトチ餅などの材料として利用されている。
▲栃川沿いの古道
 古道は、左岸から右岸、右岸から左岸へと数箇所渡渉を余儀なくされる。従ってこの古道を歩くには、登山靴は×なので注意。ただし横断箇所には、右の写真のように赤や青の目印があるので迷うことはない。
▲栃川・三条の滝
▲ツナギ沢の清冽な流れ
 仙北道は、この滝の右岸を大きく高巻くように、ツナギ沢左岸にある。 
▲柱状摂理が発達した岩壁
▲栃川大滝30m
 ゆうに三十メートルはある直滝。落下する風圧は物凄く、滝の中間部は大きく快り取られ、オーバーハング状となっている。見上げれば、両岸切り立つ岩壁が連続し、訪問者を威圧するに十分の迫力がある。
▲柏沢30m大滝
 両岸が屹立する岸壁、その遥か天井から落下する滝の迫力は満点。小滝を含めると3段の滝が連続している。 柏沢は、千年の古道・仙北道のピーク・柏峠(1018m)を源に発する。だから柏沢大滝は、歴史のロマンを秘めた古道を辿る小出川源流行のフィナーレにふさわしい見事な滝である。古道を歩くだけでなく、原始性を秘めた清冽な沢を歩けば、自然と人間と文化の豊かさを再発見できる。
▲スナゴケ ▲秋の渓谷を彩るダイモンジソウ
▲チョウジギク ▲秋の定番、猛毒の美・トリカブト
▲オヤマリンドウ ▲ウメバチソウ
▲平坦なブナの森
ブナの森は光りも音も、そして風も吸収する。沢の音、風の音。
ともに、深い森の中では静寂の音に変わる。
天を覆う緑を透視する光り。苔むした太いブナの根元に佇む。

スベスべした木肌を摩る。抱き着く。「母なる木・ブナ」・・・
森の中に雨が降れば、それは慈雨となり、光が差し込めば慈光に変化する。
そんな森の中で、蝶が舞い、虫が歌う。
▲寿命尽きてひび割れていた巨木 ▲樹肌が美しいブナ
 寿命が尽きて倒れたブナもあれば、訪問者を威圧するような巨木もあった。1200年の古道にふさわしい森が広がっている。それにしてもブナ、ブナ・・・で埋め尽くされた森と渓は、やっぱり心のオアシスだ。「岩手のブナも素晴らしい」の一言だった。ブナの森に感謝しつつ、仙北道に向かった。
仙北道その2・・・小出の越所~大胡桃山(934m)~岩手県胆沢町大寒沢林道終点
 仙北道は、麗しいブナの森と渓を縫うようなルートになっている。左右に沢を横断しながら進む。
▲カツラの巨木が林立する古道をゆく。 ▲老木が幹の途中から折れている場面も目立つ。自然の厳しさと同時に、命の循環を感じさせる風景が続く。
▲もうすぐ栃川落合
 古道は、ときおり沢に降りたり、滝を小さく巻くようなルートが続く。左手にツナギ沢が合流するとまもなく栃川落合だ。左手の高台が栃川落合。目印は、正面の小滝に顔を出す「亀の子岩」だ。
▲「仙北街道 栃川落合」と刻まれた標柱。 ▲ここから急な上り坂となる。落差約100mほど上るとツナギ沢に合流する。
▲古道に倒れ込んだブナ ▲ツナギ沢の標柱・・・ツナギ沢沿いの古道は、ここが終点である。
▲以降、沢から離れ急な窪地と急坂が続くマタギ坂を登る
▲広い古道
 標高差100m余り登ると、広い古道に出る。牛や馬が通れるような広さだ。難所が続く仙北道は、背負子によって荷を運んだため、駄賃銭が比較的高くつくばかりでなく、旅人の労力にも忍び難いものがあった。何とかしてこの山道を馬や牛が通れるようにできないものか・・・それは両藩住民の悲願だった。

 両藩の肝煎が内々に相談をし、牛道に改修する許可願いを藩庁に送った。ところが許可がなかなか出ず、しびれを切らした肝煎は、まさか「不許可」ということはあるまいと、改修に乗り出した。山道開墾途中、秋田藩から突如「その工事まかりならぬ」というキツイ中止命令がきた。藩庁より御用の提灯をかざして肝煎が引き立てられていった。途中で頓挫した牛道改修の名残りが、この広い古道である。
▲ここで道は二手に分かれる。左のルートは、大胡桃山に上る旧ルート。右は、牛が歩けるように山道開墾された迂回ルートだ。 ▲ブナの中間から幹が折れ、山門のような形をした大胡桃山ルートを上る。
▲窪地状の急坂を喘ぎながら上ると、視界が開け、山頂はもうすぐ。
▲大胡桃山(おおぐるみやま)山頂
 山頂は標高934mに過ぎないが、道中最も見晴らしの良い場所である。あいにく曇天で、焼石岳は雲海に包まれていた。「地元の人が゛野坊主゛と呼ぶこの山は、四方さえぎるもののない、極めて眺めの良い山で、野坊主とはよくもよんだり、草と潅木だけの丸い形の山である」(仙北街道覚書より)
▲重畳たる広葉樹に包まれたツナギ沢方面を望む
 正面の平らな山が栃ケ森山(1070m)。山頂の向こう側は、東成瀬村北ノ俣沢である。1200年前に見た風景と全く変わらない風景が広がっている。牛道改修の中止が幸いしたのだろうか。古道から、今なおかつての原風景を見ることができるのは、やはり奇跡と言うべきだろう。
▲大胡桃山から窪地状の古道を下る。 ▲まもなく、迂回ルートとの二股に達する。右手に200年を超えるブナの巨木が仁王立ちしている。そのブナは、近世以降裏街道を歩いた人々を全て見届けてきたに違いない。
▲左のルートは、小胡桃山へ。右のルートは、大寒沢林道終点へ。 ▲大寒沢林道終点にある森林生態系保護地域の看板

 1200年の古道といえども、人が歩かなくなると藪に埋もれ、あっと言う間に消え去ってしまう。平成2年、岩手県奥州市胆沢区愛宕公民館と秋田県東成瀬村公民館が共同で、消えた道に歴史のロマンを追う活動が始った。その後、平成8年、秋田県東成瀬村で「仙北道を考える会」、平成10年、岩手県奥州市胆沢区で「仙北街道を考える会」を結成。現在は、古道を刈り払い標柱を設置。その歴史的な古道を通して両町村が交流している。

 数百年のブナの森と険しい峰に刻まれた古道、そして苔蒸した山神の石碑・・・千古の歴史を刻む幻の古道・仙北道を辿る旅は、「美の国秋田・桃源郷」の入り口にふさわしい旅である。
参 考 文 献
東成瀬村郷土誌
河北新報2000年6月25日付け「とうほく山の物語」
東成瀬村教育委員会提供各種資料
「自然倶楽部1992年1月号 焼石連峰胆沢川支流小出川源流行」(菅原徳蔵)