なまはげ2003-1 なまはげ2003-2

 奇習と言われる「なまはげ」を二日間にわたって取材、「なまはげ」の今日的意味を改めて考えさせられた。かつて子供の「しつけ」と言えば、物を盗むな、人の物に手を掛けるな、兄弟げんかをするな、勉強しろ、働けなどというものであった。しかし今は「地震、雷、火事、オヤジ」と恐れられたオヤジの権威も威厳も、すっかり失われているのではないだろうか。それだけに、今なお子供達に恐れられている「なまはげ」の存在感を考えると、「地震、雷、火事、なまはげ」を連想してしまった。

 男鹿地方に伝わる「なまはげ」は、荒々しく大きな声で、泣き虫の子、親の言うことを聞かない子、勉強や手伝いをしない子、喧嘩をよくする子などを見つけては訓戒して歩く。子供にとって「なまはげ」は最も怖い絶対的な神で、極めて印象が強いという。これが子供の「しつけ」にも良い習俗と言われる所以であろう。今でも何か悪いことをすると、「なまはげにくれてやってしまうぞ」と言い聞かせることがよくあるという。
パート1:第40回なまはげ紫灯まつり(2003年2月7日-2月9日)
 なまはげ紫灯まつりは、2月の第二金、土、日の三日間、男鹿市北浦の真山神社で行われる。この祭りは神事「紫灯祭」と民俗行事「なまはげ」を組み合わせた観光行事である。上の写真は真山神社仁王門を過ぎた参道。あたりが暗くなるに連れて、かがり火と灯篭の灯が幻想的な輝きを放つ。
 なまはげ発祥の神社・真山神社・・・社殿は昭和34年に新築されたもので、権現造りの崩し様式による伝統と現代的建築意匠を加えたもの。
 薬師如来像(県指定有形文化財)・・・この像は南北朝時代の作とみられ、今日でもあつく崇敬されている。堂内には江戸時代の雑俳の献額もあり、幅広い信仰の様子が伺える。
 社殿と薬師堂の間に続く石段は、鬱蒼とした老杉並木が林立している。ここを松明をかざした「なまはげ」が下りてくる。
 紫灯火・・・境内から出された松の木で盛大な紫灯火が焚かれる。この紫灯火で焼いた護摩餅は、無病息災にご利益があるとして参加者に配られる。
 あたりが暗くなると、かがり火と照明でライトアップされる。午後5時50分、なまはげ紫灯まつりが始まった。
湯の舞・ちん釜祭
 「湯の舞」は男鹿地方独特の祓い神楽を奉納する。写真の「ちん釜祭」は、大釜に湯を沸かし神官が呪文を唱えながら、ワラボウキで湯をかき回す。昔から湯花の上がり具合で作柄を占う大切な神事であった。この湯立ては、海の波や荒れを鎮めるという信仰がある。
なまはげ入魂
 湯の舞・ちん釜祭が終わると、社殿と薬師堂の間に続く石段にスポットライトが移る。なまはげに扮する若者15人が石段の参道をゆっくり下りてくる。前列を陣取ったカメラマンたちは、この瞬間と「なまはげ下山」のクライマックスシーンを撮るために何と二時間も待ち続けていた。
 参道入り口の石段で神の入った面を神官から授かり、面を被る。儀式は前列二名が代表して二つの面を受け取ると、一斉にケラに隠し持っていた鬼の面を被った。
 なまはげの面を被ると、急に荒々しく動き回り、「神の使い」なまはげと化す。茶髪の若者も多いが、神の面をつけると「身が引き締まる思いがする」という。小さい頃の強烈な印象がさらに若者を奮い立たせる。親から子へ・・・なまはげが現代にも連綿と引き継がれ、地域に根付いている理由が何となく分かるような気がする。
 なまはげと化した15匹は、再び真山の暗闇に戻っていく。
なまはげ再現
 なまはげが訪問する前に、「先立」が訪問し「お晩です。ナマハゲ来たす」と告げる。主人「寒びどご良ぐ来てけだすな」。先立「山から来るに容易でねがったす」・・・といったことを方言で会話する。県外の観光客は「何を言っているのか、さっぱりわからない」とボヤク声が聞こえた。
 ついになまはげ登場。壇上を所狭しと怠け者を探し回る。「ウォーウォー」と心の底から声を出し「泣ぐ子いねが。怠け者いねが。言うごど聞がね子どらいねが。親の面倒見悪り嫁いねが。ウォーウォー」。主人「ナマハゲさん、まんず座って酒っこ飲んでくにんしょ」
 家の主人は、なまはげをひたすら低姿勢で迎える。「おめでとう」とあいさつを交わした後、主人は、来訪をねぎらい、酒をすすめ、「なまはげ膳」と呼ばれる料理でもてなす。料理は尾頭付きの魚や刺身、煮しめ、なます、ハタハタなど、その年の稔りの品々をお膳に並べるという。

 ナマハゲ「親父、今年の作なんとであった」。主人「お陰でいい作であったすでば」。ナマハゲ「んだか。まだいい作なるよう拝んでいくがらな」。主人「子どら皆まじめに勉強してるが」。主人「おらいの子どら、まじめで、親の言うごどよぐ聞ぐいい子だから」・・・などとなまはげ問答が続く。
 ほろ酔い加減になったなまはげは「どうも後ろから怠け者の強い匂いがするど」と大声で言うなり、最前列に陣取った子供や若者に襲い掛かった。

 明治の頃は、余りの恐ろしさに失神する子供が続出したこともあり、近代化とともに、なまはげは悪しき蛮行として見られた時代もあったという。これに対して、なまはげ文化に詳しい鎌田幸男教授は、なまはげは年越しの晩という厳粛な日ににやってくること、主人が正装してなまはげという「福の神」を迎え入れるという文化の視点を忘れた批判であったと講演(2月9日なまはげ館で開催されたなまはげ習俗講演会)で語ったのが強く印象に残った。
 「勉強しでるが」「親の言うごど聞いでるが」と子供に大声で聞く。子供は片時も主人から離れず、ただただ「はい、はい」と答えるのみ。主人も「泣ぐ子はいねがー、親の言うごと聞がねガギはいねがー」というなまはげの唱え文句に対して全て否定する。

 なまはげは、「どらどら、本当だが。ナマハゲの帳面見てみるが。何々、テレビばがり見で何も勉強さねし、手伝いもさねて書いであるど。」といいながら、またまた家中を暴れ回り子どもを訓戒する。最後に親父に向かって、なまはげは、一年中神社の大木の穴の中にいるから、もしそのような子供がいたら手を三回叩いてくれ、そうするとすぐにやって来ると告げる。

 主人「ナマハゲさん、まんず、この餅っこで御免してくなんしょ(下さい)」と言いながら「なまはげ餅」を献上する。なまはげは、「親父、子どもらのしづけ(しつけ)がりっと(ちゃんと)して、家の者皆まめ(健康)でれよ。来年まだ来るがらな」と言って、入って来たところから去って行った。
 県内のなまはげ習俗参入、里のなまはげ勢ぞろい・・・なまはげに類似した行事は、県内だけでも北は八森町から南は象潟町までの海岸地帯に広く見られる。能代のナゴメハギ、秋田市豊岩のヤマハゲ、象潟のアマノハギ・・・。40回を記念して、市内から表情が異なる23匹のなまはげが登場した。
なまはげ太鼓
 なまはげ太鼓は、昭和62年に創作されたもの。男鹿の海の荒々しさとなまはげのイメージを盛り込んだ勇壮な太鼓は、大勢の観客を魅了。激しく動きながら打つなまはげ太鼓は、目と耳、心の奥底にまで響き渡り、フィナーレの瞬間は大きな拍手が巻き起こった。今では、県内外はもちろん、海外でも披露されているという。
なまはげ下山
 午後6時50分、祭りのクライマックス・なまはげ下山。雪山から下りてくる勇壮な姿を撮りたかったが、右の大木が邪魔になり撮影できなかった(撮影のベストポジションを確保するには、開始二時間前から場所を確保しないと無理)。上の写真は、薬師堂の前を過ぎる瞬間。ここから山を迂回し、杉が植林された山から会場へ下りるルートを辿った。
 松明をかざしたなまはげ15匹が、雪山の暗闇からゆっくり下りてくる姿は幻想的、神秘的そのもの。祭りのクライマックスが一挙に高まる瞬間だった。特に大勢の一眼レフカメラ、デジカメ、デジタルビデオカメラを持った人たちが大挙押し寄せ、夢中で撮影する姿が印象に残った。
なまはげ献餅
 神に献ずる護摩餅を神の使者・なまはげに進ずる儀式・・・紫灯火で焼かれた大餅には神力が宿っていて、神官の捧げる護摩餅に、なまはげは容易に触れることができない。会場で暴れ回ったなまはげが、神官の前で右往左往する姿が滑稽だ。ようやく護摩餅を手にすると、なまはげは神の元へ帰っていく。

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