五城目町の番楽①~五城目神明社神楽殿での番楽競演会~

五城目番楽の由来

 五城目町には、山内・中村・西野・恋地の『番楽』と、内川の『ささら』が保存されている。それぞれの土地の名が由来となっており、山内は金剛寺(現在廃寺)、中村は白山神社・安養寺(現在廃寺)、西野は八幡社、恋地は清岩寺(現在廃寺)に、それぞれ奉仕する神官や、修験道の山伏集団が舞う、宗教行事「山伏神楽」として演じられていた。『番楽』が山伏の遊芸として一般に普及するようになったのは、中世から江戸初期にかけて。「番楽」は陸奥(岩手)では「神楽」、糠部(青森)では「能舞」、秋田では「舞曲・楽(あそび)」と言っていたそうだ

 かの菅江真澄(※注1)は、文化六年(一八〇九年)のお盆の頃五城目町山内地域を歩き、村々の盆踊りや番楽などを見て周り、当時の番楽舞を「遠い僻地に残った芸能」と形容したらしい(菅江真澄「ひなの遊び」による)。

 神楽がルーツであることから、悪霊を追い払い五穀豊穣・天下泰平を祈願する意味を持つしぐさが、舞のあちこちで表現されている。地上の三方ないし四方を踏みつけたり(しこを踏むのも同じ意味)、刀を振りかざしたりする場面などに見られる。

 しかも番楽の舞は、土の匂いさえ感じられる曲芸的な「中世の土俗宗教的舞踊」の要素と、農民のエネルギーが湧きあがるような勇壮活発な要素を持っている半面、いくつかの舞の中には義経主従の慰霊をうかがわせる描写が印象的である。「番楽」が北東北に限られることから、平泉文化との濃密なつながりも見えるという。

 山内番楽では、「番楽の家(番宿)」と呼ばれる特定の一家が、番楽の管理をしている。番楽には本来、表舞十二番・裏舞十二番の併せて二十四番があるが、現在舞われているのは十番ほど。

 いずれ極めてエネルギッシュな舞いであるから、相当な修練を要する踊りといえよう。

五城目町番楽競演会

 平成22年5月15日(土)、五城目神明社神楽殿にて行われた「五城目町番楽競演会」の構成の様子。 

■神事・口上

 境内と本殿では、大勢の来賓を招き

 神事がとり行われた。

 秋の実りへの期待を込めたという。

 番楽競演会の舞台となる神楽殿では、

 巫女舞も奉納された。

番楽競演会の無事を祈って、刀を振り下ろす。

中村番楽保存会、石井茂良氏による口上。

■露払(つゆはらい)・・・中村番楽保存会・山内番楽保存会

静かな貫禄と内なる力を感じる、中村番楽の舞い。

左に同じ(中村番楽による露払)。

山内番楽の若い舞手によるエネルギッシュな舞い。

左に同じ(山内番楽による露払)。

 神楽殿・舞手・囃子手・観客を祓い清める意味を持つので、番楽の序幕で舞う。雪洞(ボンボリ)という玉串を持って舞ったのち扇で舞い、最後は剣で舞うのが正式だが、現在は玉串と扇のみとなっている。番楽舞いの基本型が入っているが、ゆったりとした大らかな舞。

■獅子踊り・・・内川ささら保存会

 他地域では“佐々楽”と表記するが、

 内川ではひらがな表記となる。

 太鼓と、竹を割ってひとつに束ねた楽器で

 拍子を取りながら踊る。

  「獅子踊り」は、二頭の雄獅子が一頭の

 雌獅子を取り合う様を描いた舞。

 他に「奴踊り」、「棒使い」、「鎌使い」の

 四つの演目により構成されている。

■山の神・・・山内番楽保存会

 五穀豊穣を祈願する農民の舞。前歌後、

 山神面を付けた舞手が幕出して踊る。

 ゆったりとした舞から刀舞へ、

 更にヘギ(三方の上にある方形の折敷)を

 掌に二つ重ね体の周りに回し…

 さらに一つずつ両掌に挙げて回す、

 曲芸的な舞へと移る。

 何度も種蒔きの所作が入っている。

 面は山神というよりむしろ農民の表情。

■屋島・・・中村番楽保存会

 詞章を語る男性の”口唱歌”が笛の代わりで、

 最初、舞手が幕出して踊る。

 屋島壇ノ浦で、源義経と能登守教経の

 決戦の様を描いている。

 左が源義経の舞手、右が能登守教経の舞手。

義経の武勇を偲ぶ舞である。

■奴踊り・・・内川ささら保存会

 内川ささらは、中世の修験者によっておこり、江戸時代には庶民の芸能として引き継がれてきた。後継者不足から幾度となく存続の危機に晒されてきたが、保存会の強い意志のもと継承していく体制を整え、地元・町立内川小学校(平成22年4月廃校)の児童らへ、脈々と継承されてきた。

 通称「奴踊り」は、四季を通じた農作業行事などを表現している。

 「おおぎ」・「あや」を持ち奴の姿になり、十七の舞を二十人程で輪になり踊る。

■おかめ・・・中村番楽保存会

 「おかめとしなもん(才の神)伊達もんだ、伊達もんだ」という囃子をつけてコミカルに踊る「おかめ」は、 番楽の合間の裏番楽の意味合いを持つ踊りとして受け継がれている。

 それが表現するものは、かつては“根子切り”、すなわち鉞(まさかり)を持った木こりやおなご(女性)などが絡み合う、農作業の合間の滑稽な茶番劇だったようだ。

■曽我兄弟・・・山内番楽保存会

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 富士のすそ野の狩場で、父の敵・工藤左衛門祐経を討ち取った曽我十郎・五郎兄弟。十郎は敵に討たれ、五郎一人で獅子奮迅の働きをするという、奮戦の凄まじさを表現した演目。俗に「剣舞」とも呼ばれている。

 

※注1 菅江真澄(宝暦4(1754)年~文政12(1829)年)

      江戸後期の紀行家、博物学者。秋田にも訪れ、数多くの足跡を残している。

      参考文献:五城目町史・五城目郷土史

 

~五城目町の番楽②では、中村番楽の石井茂良氏のお話を中心に掲載予定です。~ 

                           県央地区担当:よどぎみ