草木谷を守る―地域住民の里山保全活動

~石川理紀之助ゆかりの棚田で稲刈り体験~

 潟上市昭和豊川にある通称「草木谷」は、100年前(明治22年)に、聖農・石川理紀之助が農業指導において10年間貧農生活を実践した場所です。荒廃した減反地となったこの場所を、地域の大人や子どもがよみがえらせる「谷津田再生プロジェクト(八郎湖水源地として環境に優しい農業に取り組む)」が、今年で3年目となりました。

 平成22年9月27日と10月11日の2日間、この里山を守る活動をしている「草木谷を守る会(石川紀行 代表)」が主催の稲刈りに参加して参りました。当日はまた、大久保小学校の児童らによる環境体験学習「田んぼの学校(※)」も行われ、山田集落の地域住民、秋田地域振興局農林部農村整備課の皆さん、八郎湖再生活動を行っているNPOはちろうプロジェクトのメンバー、県立大学生物資源科学部アグリビジネス学科生による“援農隊”などが集まり、にぎやかな稲刈りとなりました。

 

※「田んぼの学校」とは、昔ながらの農法(手植え・手刈り)で減農薬で取り組むことにより、子どもたちにその重要性を知ってもらい、下流の八郎湖にきれいな水を流そうというプロジェクトです。

 

■「田んぼの学校」受け入れの様子

9月27日は餅米(たつこもち)、10月11日は酒米(秋田酒こまち)の収穫。11月には子どもたちによる餅つきを予定。酒米は、五城目町にある福禄寿酒造で「草木谷のしぶき」という銘柄の酒になる計画です。

県立大学“援農隊”のお二人。「若い人が援農することで農家や地域が元気になってくれればいい。将来は地元と秋田、お互いの良い部分を組み合わせた農業活動がしたい」とは、新潟出身の長津瞳さん(写真右)。

金子直憲さんの“ほにょがけ”の見本を、じっくり観察する大久保小学校の5年生。

「やってみで人、いねが?」

湿気を含んでおり、一束は案外重いです。

「こんくらいは、へっちゃら!」

「わぉ!つめたくて気持ちいい!」

連日の雨で土壌がぬかるむ中での稲刈り。刈る人・運ぶ人・説明する人・写真を撮る人…それぞれが、それぞれの仕事を分担。

自分の背丈よりも高い場所に、伸びあがって束をかける児童。大人のすることを数回見ただけで覚える呑み込みの良さ。

前のめりに転んでしまい、服は泥だらけ!このあと、ようやく作業着に着替えたよどぎみでした…。

   

■石川理紀之助翁の草木谷山居跡

 100年前、石川理紀之助が「草木谷山居」を始めた「五時庵」。地元の有志などにより5時間で修復・保存されたことから、その名がつきました。

 翁45歳の時、自らが指導した「山田村経済会」の成果に対する世の農民からの批判を受け、自分の誠意を実践的な反証として示し理解してもらうため、草木谷のこの場所で10年間貧農生活を実践しました。その質素で厳しい生活は、想像を絶します。

 谷間の九反歩を耕すため、一日の半分以上を労働に費やし、三年間で700円の利益を上げたといいます。【参考:米…一石6円・反収…一石5斗(当時)】

 この地が100年後、小学生が米作りに挑戦する“環境学習の場”へと姿を変えるとは、さすがの翁も想像していなかったことでしょう。さらに100年後、この地はどのような形で生かされていくのでしょうか…。

石川理紀之助の言葉「寝ていて人を起こす勿れ」の言葉が掲げられている内部。理紀之助より数えて5代目の石川紀行氏も、「皆の力と里山の力に感謝して稲も頭を垂れ、ありがとうと感謝しています」と、謙虚な方でした。

子どもたちが帰ったあとも、地元の農家さんたちにより、作業の補足が続きます。天日干し中に雨などに降られると、せっかくの作業が台無しになるので、日があるうち、きりの良いところまで。

地元の新米おにぎりが振る舞われ、「共に汗を流した仲間」という連帯感の中、皆で昼たばこ(休憩)となりました。

これが「草木谷」の名前の由来となった“草木”。「実をすりつぶすと臭いから」とのこと。その昔は「市ノ坪」という地名だったとか…。

亭々と大空にそびえる大木も、理紀之助が住んでいた頃はまだ小さかった筈。翁は、この木を見上げて何を考えていたのだろう。

昔は食べることに事欠く場所であった田んぼは、今やこのとおり!豊作です。翁がこの光景を見たら、何と言って喜んだろう。

10月11日に集った参加者たち。参加人数がただ多いだけではなく、「草木谷を守りたい」という気概を持って、真剣に取り組んでいる人が多いです。真剣だけれど楽しく、協力し合って活動をしています。これからも、末永く続いていきますように!

   

■石川理紀之助翁の遺跡

 農村の更生や農民の救済・農業の発展に尽くし、「秋田県種苗交換会」を創設した石川理紀之助は、秋田県の「農の歴史」を語る上で外せない存在です。

 山田集落内にある数々の遺跡は、翁の生前活動を知る上で重要な手掛かりとなる場所です。翁にまつわる遺跡群をめぐることで、彼の活動を通し当時の農業者の“心”を感じ取ってみてはいかがでしょうか。

稲刈りをした谷津田の近くに、気になる道を発見。ここが、あの石川理紀之助翁にまつわる遺跡(県指定史跡)への入り口。

理紀之助翁が63才の時に作った、石川家一族が眠る墓所。明治20年には、このような屋根つきの墓所になっていたそうです。

理紀之助が晩年を過ごそうとして建てた「可祝庵」の跡。墓地と石川家宅の間に位置し、翁の田んぼが見渡される一番高い場所にある。「可祝」とは、手紙の末尾に使う「かしこ」のこと。

翁没後、門人等が集い「石川会」を組織。

翁の精神の継承や顕彰につとめる活動拠点として「石川会館」を建て、翁の遺稿や会誌の発行、映画制作、講習会などの事業を行っていました。

「秋田県史跡 石川理紀之助遺跡 指定 昭和39年4月16日」とあります。

翁の日記や遺稿、彼が読破した約1万冊の書籍などがあった「三ツ井文庫」。

(現在は、「伝習館」の書庫に移動されています。)

明治31年の火災により、古人がその志を述べた幾千もの蔵書が焼失したことにより、翁が火災に強く、丈夫なトタン張りの書庫「古人堂文庫」を建て、目録と共に収めたそう。

「梅廼舎(うめのや)」。翁が59歳の時、後継者である次男・老之助が病死。彼が草木谷に建てていた農舎を移築し、父を失った孫のため木像を安置しました。


「1日1合の米があれば一人を救いうる」という古人の言葉に従い、凶作・飢饉時の為に自らの食糧5合の中から1合の玄米・籾・麦・稗などを寄せ、備えておいた「備荒倉」。

こうして、理紀之助にまつわる建物を辿っただけでも、翁の農に対する心、真摯に取り組む姿、子どもや孫・家族・集落の人々を想いやった翁の人柄などが偲ばれます。

生前購読の雑誌や年報類を収蔵していた

「茶畠文庫」。建て物は、翁が66歳の時

(明治45年)、「大久保村元木実習場」

産米検査員養成事業で使用した建物を

払い下げ移築したものです。

  

翁は、暇をみてはこの山を崩して沢を埋めていました。翁の随筆では、「埋めはじめた頃は自分の背丈より低かった木も、10数年後に埋め終えると、自分の丈をずっと越えていた」と振り返っています。

“ひたすらに努力すれば、自分の中にある成長の木は育つ”ということを、実感していたのではないでしょうか。

左は、翁が晩年(61~71歳までの10年間)を過ごした「尚庵」入り口です。

 

左下は、後方より見た「尚庵」。手前に出ているのが、翁臨終の畳の間(客間)。

右上は、午前3時、農民に起床を知らせるため翁が打ち鳴らした板木です。

 理紀之助が遺したものが金銀財宝などではなく、農業者が継ぐべき“志”や人としての基本的な“心”、たゆまない努力と人への“想いやり”なのだということが、これらの遺跡群をとおしてひしひしと伝わってくることと思います。

 もっと詳しく知りたい方は、「潟上市郷土文化保存伝習館(石川翁資料館)」でも、翁が遺した資料や当時の生活道具展示・詳しい解説がされています。

 皆さんも一度、足を運んでみてくださいね。

潟上市郷土文化保存伝習館(018-877-6919)

県央特派員 よどぎみ