願人踊(がんにんおどり)の願人とは、山伏、修験者のこと。かつて願人は、伊勢や熊野信仰普及のため、村回りの芸人として各地を巡り歩いた。願人踊りはこうした人たちによって、二百五十年以上前にこの地域に伝わった。

 裾をはしょった女物の長襦袢の羽織、前垂れを腰から下げた踊り手が、リズムの早い奔放な踊りを披露する。歌舞伎仮名手本忠臣蔵五段目の山伏「定九郎」と爺ちゃ「与一兵衛」が踊りの途中で登場し、コミカルな寸劇で観衆を笑わせる。江戸時代に願人坊主(下層の僧)が諸国を回っている頃伝えたと言われる。毎年一日市神社祭典の5月5日に演じられる。(県無形民俗文化財)

願人踊りをメインにした陶板壁画レリーフ(JR八郎潟駅前)
定九郎、与市兵衛は歌舞伎の舞台から抜け出してきたような、本格的なふん装。白塗りの定九郎はどんぶくに紫の太い帯を締め、長刀を差す。与市兵衛は「じっちゃ」とも呼ばれ、メーキャップに凝る。
家々の前で踊る「門付け」を繰り返しながら、JR八郎潟駅を目指す。駅前で寸劇を交えて一通り披露。町外からの見物客が集まっている、ここが公演のメーンステージだ。願人踊りは特色ある大道芸として脚光を浴びている。
願人踊りを構成するのは▽音頭あげ一人▽踊り手四、五人▽唄い手三、四人。それに歌舞伎「忠臣蔵・五段目」を基にした寸劇を演じる定九郎と与市兵衛。総勢十二人ほどになる。踊りの特徴は、手と足が同時に出る。盆踊りなどを思いおこしてもらえれば分かるように、これは普通の踊りと逆。『一直踊り』ともいわれている。
この日は願人踊りのほか「子供願人踊り」、さらに子供たちが乗って「秋田音頭」を踊る山車も繰り出す。

願人踊り(八郎潟町) 「民俗文化を継ぐ」 (秋田魁新報連載記事より)

 八郎潟町一日市の商店街から、数十b裏通りに入ったところにある「一日神社」南秋田地区の統一祭典日にあたる毎年五月五日、神社境内に派手な衣装をまとった、しかも白塗りも交じる男たちが集合、エネルギュシュな踊りと寸劇を繰り広げる。およそ二百五十年前から続いているいわれる県無形民俗文化財「願人踊」の始まりだ。

 願人踊りを構成するのは▽音頭あげ一人▽踊り手四、五人▽唄い手三、四人。それに歌舞伎「忠臣蔵・五段目」を基にした寸劇を演じる定九郎と与市兵衛。総勢十二人ほどになる。

 衣装が変わっている。寸劇担当の二人を除いて長襦袢をきる。それも赤、黄色と派手な女物だ。音頭揚げは幣束と大きな鈴付きの「豊作札」を持つ。踊り手は前垂れをかけ、襦袢のすそをからげて、小さな鈴がついた手甲、脚絆をつけ、さらに頬かむりをする。唄い手もほぼ同じ姿になる。

 定九郎、与市兵衛は歌舞伎の舞台から抜け出してきたような、本格的なふん装。白塗りの定九郎はどんぶくに紫の太い帯を締め、長刀を差す。与市兵衛は「じっちゃ」とも呼ばれ、メーキャップに凝る。

 五月五日午前六時、願人踊の演じ手たちは、願人踊ゆかりの一日市神社にほど近い、一日市コミュニティーセンターに集合する。この日のそれぞれの配役は、この時に決まる。

 この日は願人踊りのほか「子供願人踊り」、さらに子供たちが乗って「秋田音頭」を踊る山車も繰り出す。こうした出し物の手伝いを終えてから、自分たちの準備に移る。当然ながら、準備に時間がかかるのが、定九郎と与市兵の二人。仲間たちに隈取りをしてもらい、三十分ほどかけて仕上げる。

 午前九時、一日市神社へ。一行は神社で無事努めを果たせるように、と手を合わせる。歌い踊るのは「イヤンヤー」「コンノエー」「口上」「オーイナイ」「桃太郎」「伊勢ジャナエ」「メデタナエ」など十種類。ほとんどの曲名は、歌い出しの文句やはやしことばから付けられた。

 一行はいよいよ、祭り気分一色の街へ出ていく。家々の前で踊る「門付け」を繰り返しながら、JR八郎潟駅を目指す。駅前で寸劇を交えて一通り披露する。町外からの見物客が集まっている、ここが公演のメーンステージでもある。

 踊りの特徴は、手と足が同時に出る。盆踊りなどを思いおこしてもらえれば分かるように、これは普通の踊りと逆。『一直踊り』ともいわれている。ハイライトとも言える寸劇は「オーイナイ」だけで披露される。視線をあびた願人踊りの一行は、再び門付けに移る。配役を決めるリーダーはいなかったが、披露する唄の順序、数は一人が取り仕切る。それは「音頭あげ」だ。

 門付けでは、紙に包まれた花代、そしてお酒がつきもの。中には、八郎潟駅前での公演の前に、振る舞われた酒でいい気持ちになってしまう人もいるとか。酔っぱらった定九郎が刀で与市兵衛の菅笠を半分切り下げた、との「武勇伝」も残っている。各家の前では、少し踊るだけだか、途中「所望」がかかると、短い曲と長めの曲に寸劇を組み入れ、楽しんでもらう。

 午後四時半ごろ、一日市地区の三分の一ほど、約三百戸を回ったところで終了となる。昔はもっと遅くまで踊ったというが、酒も手伝って疲労困憊となる。

 祭り気分があふれる五月五日の八郎潟町一日市の街。さらさらの音、鈴の音、そして歌声が近づいてくる。赤、黄色、とはでな襦袢を着込んだ願人踊一行のお目見えだ。

 聞こえる歌は、「ホーボコ節」。「イヤンヤー」「伊勢ジャナエ」「オーイナイ」など、家々の前で歌い踊られる十種類の歌とは違って、踊りに付く唄ではない。一行の行進曲にあたる。

   一つ ふくれたまんじゅうがボーボコ 
   二つ 夫婦の約束ボーボコ
   三つ みそ汁すり鉢でボーボコ 
   四つ 夜酒コなかなかやまないボーボコ 
   五つ いたずら間男ボーボコ

 と十まで続き「サーナエーアードッコイ」で最初に戻り、繰り返される。
 願人踊りの願人とは、山伏、修験者のこと。かつては願人は、伊勢や熊野信仰普及のため、村回りの芸人として各地を巡り歩いたのだった。願人踊りはこうした人たちによって、二百五十年以上前にこの地域に伝わった。

 江戸時代中期、羽立(現八郎潟)の豪農・俳人、村井素太夫が上方へ旅ほした時に「伊勢音頭」を覚えて帰り、これを従来から一日市で踊られていた願人踊りに取り入れたと、つたえられる。

 歌舞伎「忠臣蔵・五段目」を組み入れ、定九郎と与市兵衛が寸劇を演じる現在の形になったのは、明治初めごろのことらしい。毎年、諏訪神社の祭典日である四月二十七日に限られていた願人踊りも、時代よってその活動に差があった。

 戦後は、世情の混乱などから衰退の一途をたどる。その長い歴史が途絶えようとした時にできたのが研究会である。二十七年のことである。四十年ごろには心強い味方が現れる。町青年会が願人踊りをバックアップしようと名乗りを上げた。願人踊りは特色ある大道芸として脚光を浴びるようになった。四十八年には、県無形民俗文化財に指定された。